その頃はPT横浜のPTQ。
レ主レーションはON,LGのシールド。
復帰してからけっこう練習したおかげで手ごたえはありました。
玩具と一緒に松本予選遠征行ってPTQ、翌日のGPTも二人ともベスト8残りました。
GPTはどうでもいいとしてPTQの方。
はじめてゴッドパックを引いたおれは(((( ;゜д゜)))してしまってキョドってました。
ONSの有名なロリカマソート引いてさらにLGで《生命を破滅させるもの/Bane of the Living(LGN)》。
コモンも緑黒がやたら強かったのでローリ(・∀・)クス!を使わずに緑黒組んで抜け。
実はPTQのプレイオフはこの時がはじめてでかなりうれしかったです。
玩具はその時すでにPTQアムステルダムを抜けてて、参戦も決まってました。
その時の予選で印象が強かったのはまずフジケンさんに当たって《戦慄をなす者ヴィザラ/Visara the Dreadful(ONS)》に粉砕されたこと。
あとははじめて樽さんと当たってその試合のgame3。
おれがものすごい事故ってて粘りに粘って勝てたことです。
おれがやっとこさ3マナ目引いてモーフで粘りつつハンドには《生命を破滅させるもの/Bane of the Living(LGN)》
《クローサの拳カマール/Kamahl, Fist of Krosa(ONS)》
を握りつつ樽さんの場に4/1挑発くんがいたので出せず、《森林守りのエルフ/Timberwatch Elf(LGN)》をおとりにして返しで《生命を破滅させるもの/Bane of the Living(LGN)》を出して場をまっさらに。
その後《クローサの拳カマール/Kamahl, Fist of Krosa(ONS)》展開してこっちもライフがジリ貧だったので必死に考えて逆転できました。
まあ結局レアパワーですけど(;´Д`)
そんでプレイオフ。ONS、ONS、LGNのドラフトです。
上家がフジケンさんでおれはファーストピックが《火花鍛冶/Sparksmith(ONS)》でなかなか。
その後は赤がストップしてたので緑をちょこちょこ取るも色が決まらず死にかけ。
どうやら上家のフジケンさんが初手《刃の翼ロリックス/Rorix Bladewing(ONS)》らしくしかも赤緑(;´Д`)
緑のカードはフジケンさんが除去取ってこぼれてきただけらしいです。
そんなこんなで2パック目。
フジケンさん、おれのラインが緑だったため緑が逆周でフィーバー。
8/5トランプル・再生の人(名前忘れた)とか色々緑の優秀な生物が流れまくりでなんとかデッキになってくる。
そしてLGN。
初手が《残忍な先祖返り/Feral Throwback(LGN)》と《森林守りのエルフ/Timberwatch Elf(LGN)》がいて死に掛けるももちビーストいっぱいいたので前者。
そして周りのギャラリーの雰囲気が変だなーって思ってたらなんとフジケンさんの初手も《残忍な先祖返り/Feral Throwback(LGN)》だったらしいww
その後も赤緑は止められてるので《森林守りのエルフ/Timberwatch Elf(LGN)》も取れずきつかったけどなんとかこぼれてきたカードでデッキになりました。
ベスト8で玩具とも当たったりするも決勝行ってそこにはフジケンさん。
お互い上下で赤緑潰しあってたけど、やっぱり上家の方が一歩上。
1−1になってgame3。
フジケンさんの先手6ターン目の《刃の翼ロリックス/Rorix Bladewing(ONS)》に踏み潰されて権利は取れず仕舞いでした。
次の日のGPTではベスト8で藤枝さんに負けて終了。
藤枝さんとは2日間で3回も当たってて(PTQのプレイオフとGPTのスイスドローかな?)2回ともおれが勝ってたので藤枝さんが「やっと勝てたー」と言ってたのが印象的でした。
これでこの環境も自信がついて代々木のPTQに行きました。
もうその頃は東京に引っ越して来てたので会場に行くのが近過ぎて涙が出ました。
前は片道3時間かかってましたから。
その時に会ったのがAKKAでこれまた後々のマジック人生の大きな出会いとなりました。
AKKAと当たったのはたしか5回戦かそこらへんでAKKAのデッキが強過ぎて負けて、おれは最終戦勝てば抜けだったけどパンピーの《ケンタウルスの地/Centaur Glade(ONS)》に負けました。
その次の日のGPTでPTQのプレイオフも併催されてたためAKKAともまた会って、そこから仲良くなりました。
その日のGPTではデッキが強かったのもあってプレイオフ抜けれました。
ちなみにその時のPTQはAKKAをやぶった樽さんと山崎さんがPTの権利をとりました。
たしかプレイオフのドラフトでAKKAの上家だったのは愁だった気がするw
そんでGPTのプレイオフは初戦でいきなり負けて凹みました。
〜大学以降〜
AKKAと仲良くなったことで、今DiaryNoteで日記書いてるやつらと知り合って一緒にGP行ったり遊んだりする仲になりました。
こうやってみるとやっぱりおれの運命的なキーパーソンとしては
玩具とAKKAな気がします。
玩具がいなかったら都内のPTQとか遠征しなかったし、AKKAがいなかったら今のみんなとは仲良くなってないです。
今地元ではあまりみんなマジックしてないようで悲しいんですよね。
おれや井口が大学で都内行ったり、今井さんが失踪したり、清田兄弟が就職、FB潰れるなど色々原因があると思いますけど、今だに地元帰って彼らと遊んだりできるのは幸せです。
ただ切に思うのは玩具に復帰して欲しいな、ってことです。
なんだかんだで玩具と限定構築のスパーとか二人で100本勝負とか調整してお互い切磋琢磨できたし、チーム戦とか遠征とか、なにより楽しかった。
東京来てあまりチーム戦出てないですけど、組むとしたら間違いなくAKKAと組むと思います。
毎年チーム戦の時期はおれがやたら忙しい時期で出れなかったんですけど、今年度からレシュレーションの時期がずれてきてるし、チーム戦が増えてきてるから今後は前よりは出れるかな、って思います。
前AKKAと3人目誰にしようか?って話になった時に玩具がいたら間違いなく3人目だね、って話になりました。
AKKAも玩具とは面識あるし、おれが玩具のこと信頼してるためにAKKAも「玩具とならいいよー」って言ってたのを覚えてます。
チーム戦では勝つことも含めて楽しさと信頼が一番の鍵となると思います。
その点ではAKKAと玩具が最高のパートナーだと思います。
チーム戦でよくトーナメント中とか、終わった後に「あのチームはつまんない」とか口論になるのを聞きますけどそんなんじゃチーム戦のおもしろさは半減されます。
もちろん勝つための口論ならいいと思います。
馴れ合いでミスを注意しあわないのは愚の骨頂ですし。
まあ注意の仕方にも色々ありますけど。
それでチームの雰囲気が悪くなったらもう終わりです。
色々考える中でやっぱしAKKAと玩具とチーム戦出れたらいいですね。
こんな感じで昔話もといオナニー日記を終わります。
レ主レーションはON,LGのシールド。
復帰してからけっこう練習したおかげで手ごたえはありました。
玩具と一緒に松本予選遠征行ってPTQ、翌日のGPTも二人ともベスト8残りました。
GPTはどうでもいいとしてPTQの方。
はじめてゴッドパックを引いたおれは(((( ;゜д゜)))してしまってキョドってました。
ONSの有名なロリカマソート引いてさらにLGで《生命を破滅させるもの/Bane of the Living(LGN)》。
コモンも緑黒がやたら強かったのでローリ(・∀・)クス!を使わずに緑黒組んで抜け。
実はPTQのプレイオフはこの時がはじめてでかなりうれしかったです。
玩具はその時すでにPTQアムステルダムを抜けてて、参戦も決まってました。
その時の予選で印象が強かったのはまずフジケンさんに当たって《戦慄をなす者ヴィザラ/Visara the Dreadful(ONS)》に粉砕されたこと。
あとははじめて樽さんと当たってその試合のgame3。
おれがものすごい事故ってて粘りに粘って勝てたことです。
おれがやっとこさ3マナ目引いてモーフで粘りつつハンドには《生命を破滅させるもの/Bane of the Living(LGN)》
《クローサの拳カマール/Kamahl, Fist of Krosa(ONS)》
を握りつつ樽さんの場に4/1挑発くんがいたので出せず、《森林守りのエルフ/Timberwatch Elf(LGN)》をおとりにして返しで《生命を破滅させるもの/Bane of the Living(LGN)》を出して場をまっさらに。
その後《クローサの拳カマール/Kamahl, Fist of Krosa(ONS)》展開してこっちもライフがジリ貧だったので必死に考えて逆転できました。
まあ結局レアパワーですけど(;´Д`)
そんでプレイオフ。ONS、ONS、LGNのドラフトです。
上家がフジケンさんでおれはファーストピックが《火花鍛冶/Sparksmith(ONS)》でなかなか。
その後は赤がストップしてたので緑をちょこちょこ取るも色が決まらず死にかけ。
どうやら上家のフジケンさんが初手《刃の翼ロリックス/Rorix Bladewing(ONS)》らしくしかも赤緑(;´Д`)
緑のカードはフジケンさんが除去取ってこぼれてきただけらしいです。
そんなこんなで2パック目。
フジケンさん、おれのラインが緑だったため緑が逆周でフィーバー。
8/5トランプル・再生の人(名前忘れた)とか色々緑の優秀な生物が流れまくりでなんとかデッキになってくる。
そしてLGN。
初手が《残忍な先祖返り/Feral Throwback(LGN)》と《森林守りのエルフ/Timberwatch Elf(LGN)》がいて死に掛けるももちビーストいっぱいいたので前者。
そして周りのギャラリーの雰囲気が変だなーって思ってたらなんとフジケンさんの初手も《残忍な先祖返り/Feral Throwback(LGN)》だったらしいww
その後も赤緑は止められてるので《森林守りのエルフ/Timberwatch Elf(LGN)》も取れずきつかったけどなんとかこぼれてきたカードでデッキになりました。
ベスト8で玩具とも当たったりするも決勝行ってそこにはフジケンさん。
お互い上下で赤緑潰しあってたけど、やっぱり上家の方が一歩上。
1−1になってgame3。
フジケンさんの先手6ターン目の《刃の翼ロリックス/Rorix Bladewing(ONS)》に踏み潰されて権利は取れず仕舞いでした。
次の日のGPTではベスト8で藤枝さんに負けて終了。
藤枝さんとは2日間で3回も当たってて(PTQのプレイオフとGPTのスイスドローかな?)2回ともおれが勝ってたので藤枝さんが「やっと勝てたー」と言ってたのが印象的でした。
これでこの環境も自信がついて代々木のPTQに行きました。
もうその頃は東京に引っ越して来てたので会場に行くのが近過ぎて涙が出ました。
前は片道3時間かかってましたから。
その時に会ったのがAKKAでこれまた後々のマジック人生の大きな出会いとなりました。
AKKAと当たったのはたしか5回戦かそこらへんでAKKAのデッキが強過ぎて負けて、おれは最終戦勝てば抜けだったけどパンピーの《ケンタウルスの地/Centaur Glade(ONS)》に負けました。
その次の日のGPTでPTQのプレイオフも併催されてたためAKKAともまた会って、そこから仲良くなりました。
その日のGPTではデッキが強かったのもあってプレイオフ抜けれました。
ちなみにその時のPTQはAKKAをやぶった樽さんと山崎さんがPTの権利をとりました。
たしかプレイオフのドラフトでAKKAの上家だったのは愁だった気がするw
そんでGPTのプレイオフは初戦でいきなり負けて凹みました。
〜大学以降〜
AKKAと仲良くなったことで、今DiaryNoteで日記書いてるやつらと知り合って一緒にGP行ったり遊んだりする仲になりました。
こうやってみるとやっぱりおれの運命的なキーパーソンとしては
玩具とAKKAな気がします。
玩具がいなかったら都内のPTQとか遠征しなかったし、AKKAがいなかったら今のみんなとは仲良くなってないです。
今地元ではあまりみんなマジックしてないようで悲しいんですよね。
おれや井口が大学で都内行ったり、今井さんが失踪したり、清田兄弟が就職、FB潰れるなど色々原因があると思いますけど、今だに地元帰って彼らと遊んだりできるのは幸せです。
ただ切に思うのは玩具に復帰して欲しいな、ってことです。
なんだかんだで玩具と限定構築のスパーとか二人で100本勝負とか調整してお互い切磋琢磨できたし、チーム戦とか遠征とか、なにより楽しかった。
東京来てあまりチーム戦出てないですけど、組むとしたら間違いなくAKKAと組むと思います。
毎年チーム戦の時期はおれがやたら忙しい時期で出れなかったんですけど、今年度からレシュレーションの時期がずれてきてるし、チーム戦が増えてきてるから今後は前よりは出れるかな、って思います。
前AKKAと3人目誰にしようか?って話になった時に玩具がいたら間違いなく3人目だね、って話になりました。
AKKAも玩具とは面識あるし、おれが玩具のこと信頼してるためにAKKAも「玩具とならいいよー」って言ってたのを覚えてます。
チーム戦では勝つことも含めて楽しさと信頼が一番の鍵となると思います。
その点ではAKKAと玩具が最高のパートナーだと思います。
チーム戦でよくトーナメント中とか、終わった後に「あのチームはつまんない」とか口論になるのを聞きますけどそんなんじゃチーム戦のおもしろさは半減されます。
もちろん勝つための口論ならいいと思います。
馴れ合いでミスを注意しあわないのは愚の骨頂ですし。
まあ注意の仕方にも色々ありますけど。
それでチームの雰囲気が悪くなったらもう終わりです。
色々考える中でやっぱしAKKAと玩具とチーム戦出れたらいいですね。
こんな感じで昔話もといオナニー日記を終わります。
MMあたりからようやく周りでもリミテッドが浸透してきました。
いちおプレリパーティとかはありましたけど全然弱弱な感じで、そもそも学生にはパックを3パックも買って剥き剥きするのは高く感じました。
なのでたまにパック買ってやることもありましたけど、そこはナカジマに置いてあったコモン墓場からカードをかき集めて、できるだけ色がちらばるようにパック作ってドラフトしてました。
当時はソートなんぞ知ったこっちゃないので気にしません。
賞品はみんな1Kくらいのカード持ち寄せて総取りでやってました。
そんなこんなでリミテッドに目覚めたおれはGP横浜でチームリミテドがあるのを聞いて出てみたいなと思いメンバーを集めることにしました。
ちょうどFBの月例大会に井上さんが来てたので「GP出てみませんか?」と誘ってみると二つ返事でOKもらいました。
まだその頃GP遠征とか周りで行ってる人は少なかったっていうか全くいなかったのでトーナメント志向の考えを持つ友達ができてうれしかったのを覚えてます。
そこでおれ、井上さん、兄で最初出ることになったのですが、兄が大学の都合で出れなくなったため代打で玩具が3人目と決まりました。
これまた後々の運命的なチームになったと思います。
FBで集まってチームシールドの練習したりして、基本的におれ3人分デッキ作ることに決まって参戦。
チームの役割としては、
玩具=エース
おれ=司令塔
井上さん=リーダー(名ばかり)
兄が千葉で下宿してたのでそこを拠点として横浜に向かいました。
たしか8回戦で4回戦、4回戦で分けられたチームシールドでした。
コンセプトとしては玩具と井上さんに赤、緑、黒系のデッキ渡して勝ちに行ってもらって、おれが青、白中心に寄せ集めで頑張って勝つことになりました。
前半のもらったパックはそこそこでおれが青白、玩具が赤緑で井上さんが赤黒?だった気がします。
おれが《カルデラのカヴー/Caldera Kavu(PS)》を井上さんのデッキに入れたんですけど、彼が弱いとか言い出して結局サイド後に使ったら強いことに気付いたらしく早く死んだ方がいいなーって思いました。
8回戦ってことで6−2がボーダーでした。
前半のデッキが強かったのに早々に1−1−1となりがけっぷちに。
4回戦にも引き分けてしまってかなり凹んだ記憶があります。
いちおせっかく来たわけだし最後までやろうってことになって後半戦。
カードプールはさっきよりは弱いがそこそこで玩具が赤緑で井上さんが赤黒だか青黒。んでおれがちょう弱い白青+黒で二人に頑張ってもらうことにしました。
そっからおれが謎にヘボデッキで粘ったおかげで4連勝。
最終的に5−1−2でフィニッシュしてチームリミテッドは1ByeくらいのRatingになりました。
それがきっかけになってその時のチーム名を使ってチームRed Snakeを結成しました。
ネーミングセンスはどうかと思いましたけど、おれが赤好きで、井上さんが蛇が好きだーとか言ってたのでそんな感じになった気がします。
今だにうちのチームのほめぱげが残ってるので暇な人は見てみてください。
写真とか載っちゃってるのでアドレスはかけないので気合で探してみてくださいw
そんなこんなで新たなコミュニティーで調整する日々が続きました。
そして今気付いちゃったんですけど、おれの学年と大会がづれてるかもしれません。
もしかしたらGP横浜っておれが高3の時だった気もするしw
そこはご愛嬌で。
だってGP名古屋のチーム戦ってかなり浪人の頃に出た気がするし。
という訳でGP名古屋の話w
GP横浜は高3の時の話ってことにして浪人の時に出た名古屋のことを書きます。
GP横浜のおかげで1Byeをもらえたためちょっとだけチーム戦に関しては自信があったおれ達は挫折を味わいます。
レギュレーションはOD,TO。
とにかくクソパックだったことしか覚えてません。
チーム戦であのカードプールじゃ勝負にならないことくらいは当時のおれ達でもわかりました。
正面のパンピーが「《ラクァタスのチャンピオン/Laquatus’s Champion(TOR)》あるよー《踏み荒らし/Overrun(OD)》とか2枚あるやん〜いらね〜w」とか言ってて殺意を覚えました。
結果はもちろん惨敗。
何しにきたんだかわかりませんでした。
その後は秋になりおれもちょっとは真面目に受験勉強初めてマジックは少しだけ封印してました。
でも調子こいてGP宇都宮とか行きました。
その時にたびたび日記にも出てきてるK田兄弟改め清田兄弟の話。
ナカジマでよく調整してたのは清田兄弟と井上くん。
井上くんってのは清田弟とタメで、こないだGP新潟で偶然会ってまだマジックしててうれしかったです。
清田兄弟ってのは最近はあまりマジックはしてないらしいですけど、おれが中学の頃からの仲で毎週ドラフトとかいそしんでました。
なのでGP宇都宮も兄だけ一緒に参戦したんですけど、彼はノーByeから8−0で初日全勝。
2日目のロチェは今まで1回もやったことなくて、おれが「とにかく協調で!」って言っておきました。
群馬じゃ8人でドラフトとか全くといっていいほどできなかったのでロチェなんてやったことありません。
元々センスのあった清田さんは上家の東野さんと協調して見事な赤緑を構築してFirstドラフトを2−1で折り返しました。
10回戦までは見事な10−0のポールトゥウィンで1位だったのを見てかなりすげーなぁ、って思いました。
しかしSecondドラフトでは色替えしなきゃいけなかったんですけど、色替えなんてロチェ1回目の人間ができるはずもなく初めの色をキープし続けて0−3。
それでも初のGP参戦で0Byeから10−4は堂々たる結果だと思いました。
ちゃんとマネーフィニッシュしてるしアマチュア賞金取ってるしね。
ちなみにおれはクソパックを(σ・∀・)σゲッツ!!して惨敗でした。
そこではじめてTackさんと当たりました。
玩具はたしか最終戦IDで抜けだったんですけど、最後ガチられて死去してしまいました。
それでもやっぱ強かったです。
その後もFinalsの予選とかはちゃっかり行ってましたw
抜けれなかったけど。
そんで2002年になり進路も決まってPTQサーキットに参戦しはじめました。
〜続く〜
いちおプレリパーティとかはありましたけど全然弱弱な感じで、そもそも学生にはパックを3パックも買って剥き剥きするのは高く感じました。
なのでたまにパック買ってやることもありましたけど、そこはナカジマに置いてあったコモン墓場からカードをかき集めて、できるだけ色がちらばるようにパック作ってドラフトしてました。
当時はソートなんぞ知ったこっちゃないので気にしません。
賞品はみんな1Kくらいのカード持ち寄せて総取りでやってました。
そんなこんなでリミテッドに目覚めたおれはGP横浜でチームリミテドがあるのを聞いて出てみたいなと思いメンバーを集めることにしました。
ちょうどFBの月例大会に井上さんが来てたので「GP出てみませんか?」と誘ってみると二つ返事でOKもらいました。
まだその頃GP遠征とか周りで行ってる人は少なかったっていうか全くいなかったのでトーナメント志向の考えを持つ友達ができてうれしかったのを覚えてます。
そこでおれ、井上さん、兄で最初出ることになったのですが、兄が大学の都合で出れなくなったため代打で玩具が3人目と決まりました。
これまた後々の運命的なチームになったと思います。
FBで集まってチームシールドの練習したりして、基本的におれ3人分デッキ作ることに決まって参戦。
チームの役割としては、
玩具=エース
おれ=司令塔
井上さん=リーダー(名ばかり)
兄が千葉で下宿してたのでそこを拠点として横浜に向かいました。
たしか8回戦で4回戦、4回戦で分けられたチームシールドでした。
コンセプトとしては玩具と井上さんに赤、緑、黒系のデッキ渡して勝ちに行ってもらって、おれが青、白中心に寄せ集めで頑張って勝つことになりました。
前半のもらったパックはそこそこでおれが青白、玩具が赤緑で井上さんが赤黒?だった気がします。
おれが《カルデラのカヴー/Caldera Kavu(PS)》を井上さんのデッキに入れたんですけど、彼が弱いとか言い出して結局サイド後に使ったら強いことに気付いたらしく早く死んだ方がいいなーって思いました。
8回戦ってことで6−2がボーダーでした。
前半のデッキが強かったのに早々に1−1−1となりがけっぷちに。
4回戦にも引き分けてしまってかなり凹んだ記憶があります。
いちおせっかく来たわけだし最後までやろうってことになって後半戦。
カードプールはさっきよりは弱いがそこそこで玩具が赤緑で井上さんが赤黒だか青黒。んでおれがちょう弱い白青+黒で二人に頑張ってもらうことにしました。
そっからおれが謎にヘボデッキで粘ったおかげで4連勝。
最終的に5−1−2でフィニッシュしてチームリミテッドは1ByeくらいのRatingになりました。
それがきっかけになってその時のチーム名を使ってチームRed Snakeを結成しました。
ネーミングセンスはどうかと思いましたけど、おれが赤好きで、井上さんが蛇が好きだーとか言ってたのでそんな感じになった気がします。
今だにうちのチームのほめぱげが残ってるので暇な人は見てみてください。
写真とか載っちゃってるのでアドレスはかけないので気合で探してみてくださいw
そんなこんなで新たなコミュニティーで調整する日々が続きました。
そして今気付いちゃったんですけど、おれの学年と大会がづれてるかもしれません。
もしかしたらGP横浜っておれが高3の時だった気もするしw
そこはご愛嬌で。
だってGP名古屋のチーム戦ってかなり浪人の頃に出た気がするし。
という訳でGP名古屋の話w
GP横浜は高3の時の話ってことにして浪人の時に出た名古屋のことを書きます。
GP横浜のおかげで1Byeをもらえたためちょっとだけチーム戦に関しては自信があったおれ達は挫折を味わいます。
レギュレーションはOD,TO。
とにかくクソパックだったことしか覚えてません。
チーム戦であのカードプールじゃ勝負にならないことくらいは当時のおれ達でもわかりました。
正面のパンピーが「《ラクァタスのチャンピオン/Laquatus’s Champion(TOR)》あるよー《踏み荒らし/Overrun(OD)》とか2枚あるやん〜いらね〜w」とか言ってて殺意を覚えました。
結果はもちろん惨敗。
何しにきたんだかわかりませんでした。
その後は秋になりおれもちょっとは真面目に受験勉強初めてマジックは少しだけ封印してました。
でも調子こいてGP宇都宮とか行きました。
その時にたびたび日記にも出てきてるK田兄弟改め清田兄弟の話。
ナカジマでよく調整してたのは清田兄弟と井上くん。
井上くんってのは清田弟とタメで、こないだGP新潟で偶然会ってまだマジックしててうれしかったです。
清田兄弟ってのは最近はあまりマジックはしてないらしいですけど、おれが中学の頃からの仲で毎週ドラフトとかいそしんでました。
なのでGP宇都宮も兄だけ一緒に参戦したんですけど、彼はノーByeから8−0で初日全勝。
2日目のロチェは今まで1回もやったことなくて、おれが「とにかく協調で!」って言っておきました。
群馬じゃ8人でドラフトとか全くといっていいほどできなかったのでロチェなんてやったことありません。
元々センスのあった清田さんは上家の東野さんと協調して見事な赤緑を構築してFirstドラフトを2−1で折り返しました。
10回戦までは見事な10−0のポールトゥウィンで1位だったのを見てかなりすげーなぁ、って思いました。
しかしSecondドラフトでは色替えしなきゃいけなかったんですけど、色替えなんてロチェ1回目の人間ができるはずもなく初めの色をキープし続けて0−3。
それでも初のGP参戦で0Byeから10−4は堂々たる結果だと思いました。
ちゃんとマネーフィニッシュしてるしアマチュア賞金取ってるしね。
ちなみにおれはクソパックを(σ・∀・)σゲッツ!!して惨敗でした。
そこではじめてTackさんと当たりました。
玩具はたしか最終戦IDで抜けだったんですけど、最後ガチられて死去してしまいました。
それでもやっぱ強かったです。
その後もFinalsの予選とかはちゃっかり行ってましたw
抜けれなかったけど。
そんで2002年になり進路も決まってPTQサーキットに参戦しはじめました。
〜続く〜
玩具と井上さんと会ったのはFBでやってたぎゃざの何周年記念だかのエクテンの大会の時でした。
玩具たちは伊勢崎勢で、伊勢崎勢は主にタイプ1をやってたらしくてエクテンだしって訳でFB来たかどうかは定かじゃないですけどとにかく会いました。
ちなみに玩具は兄弟プレイヤーで兄の方は怪しげな雰囲気を持っててたまにドラフトとか一緒にするんですけど相当怪しいデッキを組むことで有名です。
おれがリプレ使ってるのに興味を示したらしく、井上さんが「デッキ見せてケロ」って言ってきたのが最初でした。
井上さんはその当時あんまし周りで使われてなかったネクロドネイト使っててちょっとだけすごいと思いました。
でも負けてたので微妙だなって思いました。
その後もPT東京のPTQに遠征行って遭遇したりして次第に仲よくなっていきました。
そん時に井上さんは赤スライ使っててあと1勝でプレイオフって時にプレイオフが次の日でみんな帰っちゃうからっていう理由でわざと負けやがりました。
手札に《ボールライトニング》2枚溜め込むプレイングで見事に負けて晴れてみんなと一緒に帰ってく井上さんを見てすごいんだかすごくないんだか微妙な気持ちになりました。
まあ当時はPTQって平気で2日がかりでやってたしね。
余談ですけど、その時のPTQで森雅也さんが最後勝った方がプレイオフって試合でお互い引き分けになりかけてました。
そこでおもむろに雅也さんが投了。
そのままあっさり去って行く姿がめっちゃかっこよかったのを覚えてます。
当時はトスとか全然聞いたことなかったのでなんて紳士なんだ!って感動しました。
〜高3〜
そんなこんなで玩具や井上さんらと交流を深めつつもTOYで調整に勤しむ日々が続きました。
高2の秋から新しい部活入ってたり、受験期だったりでいろいろ忙しかったりもしました。
そんな中、第1回目の高校生選手権が開かれるということでおれ、仁志、社長で出ようZE!って意気込んでました。
でも見事に日程が8月後半。
夏期講習とド被りで断念しました。
おれと仁志は行く気満々だったんですけど、社長はエリートコースな男なので講習を選びました。
社長は今頃K応の医学部で頑張ってるに違いない。
医者になったら肉おごってちょ(*^ー゜)b
でたぶんこの時期だと思うんですけど、今井さんがうちらのコミュニティーを揺るがす事件を起こします。
栃木のきんこん館にみんなで遠征しに行った時、今井さんは井口の家に泊まってきました。
そんで朝みんなで合流して栃木行ってあっさり今井さんが優勝してったんですけど、そこで事件が。
後日井口がオースドネイトのパーツがごっそりなくなってたって言ってきました。
被害は、
4《Tropical Island》
4《ドルイドの誓い/Oath of Druids(EX)》
4《Force of Will》
4《Ilusion of Grandure》
あと《変異種/Morphling(UZ)》とか色々です。
スペルは適当に書いたので突っ込まないでください。
当時はけっこうな額だったので井口はブチ切れ。
当たり前だけどねw
んでTOY勢とその件について話してみると、見事にそのパーツを
全てTOY勢の人たちに売却されてました。
今井さんはエクテンのカードとか全然持ってなかったのでおかしいと思ってたらしいです。
こんな足の着くとこでカード捌くとはやっぱりあの人はアホでした。
ちなみに今井さんには虚言癖が多々あって、母親は義理の母親で、そして義理の妹が3人いる。彼女にマジック辞めろって言われてて困ってると。そして家は金持ちだってさ(´・∀・`)
ホントに困ってたのは彼の頭の中でした。
TOY勢の中でもみんな信頼してた田中さんら年上の方々に頼んで井口が今井さんち乗り込んでみるとめっちゃぼろい家で母親がいただけで義理の妹3人とか予想通りいなかったらしいです。
あわれ、今井さん。
結局井口のパクられたカードはTOY勢のみんなの厚意で戻ってきました。
でも今井が売った金はどうなったか知りません。
みんなから取り立てられたのかなー(*´∇`*)
そしておれが高校卒業するこの年にTOY勢のみんなにカード貸してくれてた人が大学卒業して実家に帰らなくてはいけなくなり、いちおコミュニティーの中心だった今井さんの迫害によってTOY勢は解散をよぎなくされます。
おれがTOYに行かなくなってまもなくしてデュエルスペースは撤去されたらしいです。
ちなみにその後もたびたびTOYの隣りのゲーセンにはTOY勢のみんながゲームしに来てたので後日談を聞くと今井さんは年下のみんなからさえも迫害され、パシリにされたらしいです。
後輩から電話でジュース買って来て☆と命令されて必死に走ってくる今井さんを想像すると笑いが止まらない涙がこぼれそうです。
おそらくTOY勢でマジックやってたやつら、主におれの年下なんですけどシンヤ、ユウヤ、安達くんあたりは真面目に続けてたら相当強くなってたと思います。
今頃なにしてんだろ。
そんなこんなで浪人しましたw
〜浪人〜
浪人の最初の2,3ヶ月で免許取って行動範囲が広がったため大会とか玩具の家に行くのが楽になりました。
そういえばこの時期よりも前からですけど、桐生のマナソースの月例大会で稼ぎまくってました。
レギュレーションがなんとジャパクラで非公認。
それはそれでいいんですけど、参加費タダで優勝すると店で5000円分買い物できたんです。
そこでほぼ毎回入賞してっておいしくカードを購入してました。
だいたい入賞するのは伊勢崎勢かナカジマ勢だったので身内みんなウハウハでした。
そこの大会は変わってて、その大会で優勝したデッキから2位の人が1種類禁止カード選んでいくシステムだったんです。
1つのデッキがバカ勝ちするのを防ぐためだったのでしょうか。
ある日禁止カードを1から決めるってなってすべて白紙に戻りました。
ってことはMoMAだろうがメグリムジャーだろうがなんでもありです。
《象牙の塔》4枚ぶち込もうが、《精神錯乱》4枚ぶちこもうがおかまいなしな素敵なレギュレーションに早変わりw
で結局優勝したのはおれの変哲もないリプレで、第1回目の禁止カードはめでたく《補充/Replenish(UD)》となりました(´・∀・`)
その後おれが赤緑オースランデスで《ドルイドの誓い/Oath of Druids(EX)》が禁止になったり、ちっともMoMAが禁止されませんでした。
MoMA使ってる人はいたんですけど、あまりにパンピー過ぎておれが普通の赤茶単で戦った時にいい勝負になるくらいでした。
マジック難しいね!!
でその後もおいしく稼ぎ続けていいバイトになりました。
あんまし勉強してる気配がないですけど気のせいです。
そしてこの年、初めてGPに出ることになりました。
2001年GP横浜。
レギュレーションはIN・PSのチームリミテッドです。
〜続く〜
玩具たちは伊勢崎勢で、伊勢崎勢は主にタイプ1をやってたらしくてエクテンだしって訳でFB来たかどうかは定かじゃないですけどとにかく会いました。
ちなみに玩具は兄弟プレイヤーで兄の方は怪しげな雰囲気を持っててたまにドラフトとか一緒にするんですけど相当怪しいデッキを組むことで有名です。
おれがリプレ使ってるのに興味を示したらしく、井上さんが「デッキ見せてケロ」って言ってきたのが最初でした。
井上さんはその当時あんまし周りで使われてなかったネクロドネイト使っててちょっとだけすごいと思いました。
でも負けてたので微妙だなって思いました。
その後もPT東京のPTQに遠征行って遭遇したりして次第に仲よくなっていきました。
そん時に井上さんは赤スライ使っててあと1勝でプレイオフって時にプレイオフが次の日でみんな帰っちゃうからっていう理由でわざと負けやがりました。
手札に《ボールライトニング》2枚溜め込むプレイングで見事に負けて晴れてみんなと一緒に帰ってく井上さんを見てすごいんだかすごくないんだか微妙な気持ちになりました。
まあ当時はPTQって平気で2日がかりでやってたしね。
余談ですけど、その時のPTQで森雅也さんが最後勝った方がプレイオフって試合でお互い引き分けになりかけてました。
そこでおもむろに雅也さんが投了。
そのままあっさり去って行く姿がめっちゃかっこよかったのを覚えてます。
当時はトスとか全然聞いたことなかったのでなんて紳士なんだ!って感動しました。
〜高3〜
そんなこんなで玩具や井上さんらと交流を深めつつもTOYで調整に勤しむ日々が続きました。
高2の秋から新しい部活入ってたり、受験期だったりでいろいろ忙しかったりもしました。
そんな中、第1回目の高校生選手権が開かれるということでおれ、仁志、社長で出ようZE!って意気込んでました。
でも見事に日程が8月後半。
夏期講習とド被りで断念しました。
おれと仁志は行く気満々だったんですけど、社長はエリートコースな男なので講習を選びました。
社長は今頃K応の医学部で頑張ってるに違いない。
医者になったら肉おごってちょ(*^ー゜)b
でたぶんこの時期だと思うんですけど、今井さんがうちらのコミュニティーを揺るがす事件を起こします。
栃木のきんこん館にみんなで遠征しに行った時、今井さんは井口の家に泊まってきました。
そんで朝みんなで合流して栃木行ってあっさり今井さんが優勝してったんですけど、そこで事件が。
後日井口がオースドネイトのパーツがごっそりなくなってたって言ってきました。
被害は、
4《Tropical Island》
4《ドルイドの誓い/Oath of Druids(EX)》
4《Force of Will》
4《Ilusion of Grandure》
あと《変異種/Morphling(UZ)》とか色々です。
スペルは適当に書いたので突っ込まないでください。
当時はけっこうな額だったので井口はブチ切れ。
当たり前だけどねw
んでTOY勢とその件について話してみると、見事にそのパーツを
全てTOY勢の人たちに売却されてました。
今井さんはエクテンのカードとか全然持ってなかったのでおかしいと思ってたらしいです。
こんな足の着くとこでカード捌くとはやっぱりあの人はアホでした。
ちなみに今井さんには虚言癖が多々あって、母親は義理の母親で、そして義理の妹が3人いる。彼女にマジック辞めろって言われてて困ってると。そして家は金持ちだってさ(´・∀・`)
ホントに困ってたのは彼の頭の中でした。
TOY勢の中でもみんな信頼してた田中さんら年上の方々に頼んで井口が今井さんち乗り込んでみるとめっちゃぼろい家で母親がいただけで義理の妹3人とか予想通りいなかったらしいです。
あわれ、今井さん。
結局井口のパクられたカードはTOY勢のみんなの厚意で戻ってきました。
でも今井が売った金はどうなったか知りません。
みんなから取り立てられたのかなー(*´∇`*)
そしておれが高校卒業するこの年にTOY勢のみんなにカード貸してくれてた人が大学卒業して実家に帰らなくてはいけなくなり、いちおコミュニティーの中心だった今井さんの迫害によってTOY勢は解散をよぎなくされます。
おれがTOYに行かなくなってまもなくしてデュエルスペースは撤去されたらしいです。
ちなみにその後もたびたびTOYの隣りのゲーセンにはTOY勢のみんながゲームしに来てたので後日談を聞くと今井さんは年下のみんなからさえも迫害され、パシリにされたらしいです。
後輩から電話でジュース買って来て☆と命令されて必死に走ってくる今井さんを想像すると
おそらくTOY勢でマジックやってたやつら、主におれの年下なんですけどシンヤ、ユウヤ、安達くんあたりは真面目に続けてたら相当強くなってたと思います。
今頃なにしてんだろ。
そんなこんなで浪人しましたw
〜浪人〜
浪人の最初の2,3ヶ月で免許取って行動範囲が広がったため大会とか玩具の家に行くのが楽になりました。
そういえばこの時期よりも前からですけど、桐生のマナソースの月例大会で稼ぎまくってました。
レギュレーションがなんとジャパクラで非公認。
それはそれでいいんですけど、参加費タダで優勝すると店で5000円分買い物できたんです。
そこでほぼ毎回入賞してっておいしくカードを購入してました。
だいたい入賞するのは伊勢崎勢かナカジマ勢だったので身内みんなウハウハでした。
そこの大会は変わってて、その大会で優勝したデッキから2位の人が1種類禁止カード選んでいくシステムだったんです。
1つのデッキがバカ勝ちするのを防ぐためだったのでしょうか。
ある日禁止カードを1から決めるってなってすべて白紙に戻りました。
ってことはMoMAだろうがメグリムジャーだろうがなんでもありです。
《象牙の塔》4枚ぶち込もうが、《精神錯乱》4枚ぶちこもうがおかまいなしな素敵なレギュレーションに早変わりw
で結局優勝したのはおれの変哲もないリプレで、第1回目の禁止カードはめでたく《補充/Replenish(UD)》となりました(´・∀・`)
その後おれが赤緑オースランデスで《ドルイドの誓い/Oath of Druids(EX)》が禁止になったり、ちっともMoMAが禁止されませんでした。
MoMA使ってる人はいたんですけど、あまりにパンピー過ぎておれが普通の赤茶単で戦った時にいい勝負になるくらいでした。
マジック難しいね!!
でその後もおいしく稼ぎ続けていいバイトになりました。
あんまし勉強してる気配がないですけど気のせいです。
そしてこの年、初めてGPに出ることになりました。
2001年GP横浜。
レギュレーションはIN・PSのチームリミテッドです。
〜続く〜
続きです。
糸井さんの話の続きですが、デュエリストジャパンVol.8をお持ちの方は24Pの『果てしなき可能性〜99年日本選手権観戦記〜』を御覧下さい。
下の写真のNACさんの左に座ってるのが糸井さんです。
ちなみに右上の能西さんの解説がしてあるんですけど、一緒に載ってる写真は糸井さんですw
このことを糸井さんに言うと怒るのでおもしろくてこのネタでたまにいじってました。
そんなこんなで初の公認トーナメントにクラークと行くことになりました。
当時はFB高崎店が一番栄えてた(DCI公認で)のでドキドキしながらFBへ行きました。
そして驚愕の事実を知ることになります。
丁度その時にデスティニーが出たばっかしで、おれが持ってったデッキが《アカデミーの研究者/Academy Researchers(UZ)》やら《玉虫色のドレイク/Iridescent Drake(UD)》やらに各種抱擁をくっ付けてぶん殴る青単ビートダウンだったんですけどw
当時発売してすぐ使っちゃいけないルールなんて知らなかったのでジャッジに「組みなおしてね☆」と軽くあしらわれました。
仕方ないので持ってきた予備カードをあさって謎に《ゼフィド/Zephid(UZ)》などをぶち込んだ記憶があります。
結果は2−3でぐちゃデッキのわりにはまあまあだったと思いました。
初めて公認トーナメントに出てから、おれはまるで思春期のオナニー少年のようにデッキ調整に勤しみました。
部活を辞めて時間もある程度自由だったため学校帰りに近くのわんぱくこぞう行ったりしてマジックマジックしてました。
ちなみにそこの店は速攻でつぶれました。
そんで次に出た時が赤単頑張れ《バルデュヴィアの大軍/Balduvian Horde(6E)》デッキで3−2。
その頃に黒田さん、狩野さん、織田さんと知り合って大会のたびに遊んでました。
黒田さんはまじでネプチューンの泰造に似てます。黒大好きです。
狩野さんはスーパーエロゲ大将でよくエロゲーを譲ってもらえました。
織田さんは生粋のエンチャントレス好きないいお兄さんでした。
みなさんお元気ですか?(*´∇`*)
その次のトーナメントあたりからコンスタントに4−1を繰り返すようになります。
初めて4−1の2位に滑り込んだ時はマスクスが出てレベルが登場してるのにレベルを使わない白うにーでした。
糸井さんと調整してて糸井さんはその頃からレベルだったんですけど、おれはわが道を行ってました。
8クルセイドで《恭しきマントラ/Reverent Mantra(MM)》とか《ハルマゲドン/Armageddon(6E)》撃ってれば勝てましたし。
そんで初めての大きい大会っつか予選だけど、1999年のFinals予選です。
その頃は関東5次くらいまであってどの日に出るかピヨピヨしてました。
糸井さんは初日に出場してきっちり白うにーで6−1突破してました。
おれはたしか2次あたりだった気がする。
河野さんとおれと伊藤(同中のやつ。陸上部でかおがトム・ヴァン・デ・ドロに似てる)で行きました。
ちなみに伊藤は葉書送り忘れて出れないのに見学ということで一緒についてきただけです。
もともと調整してたのは白うにーですけど、メタ的に生物殺してーって思って黒コンを持ち込みました。
結果はたしか2−2Dropだったっけな?
河野さんはピットサイクル持ち込んでたんですけど、おれが見てるデュエルでピヨピヨしてるのを見てちょっとだけ失望したのを覚えてます。
そこで初めて世界は広いなーと思いました。
気付くの遅すぎますけど、群馬の当時のコミュニティーではこんなもんだと思います。
〜高2〜
FBも店の新装開店なんだか理由はわかりませんけど場所が変わりました。
でも大会は相変わらずだったので月に1回の月例トーナメントを目標に日々デッキ調整してました。
その頃から会うようになったのが今井さんです。
彼は生粋の青使いで普通に構築戦では負けるのはほぼ見たことがないくらいでした。
彼の伝説としては後に行われる岡田さんが優勝の2001年のLoMの最終戦(だった気がする)で《選択/Opt(IN)》打って自分のライブラリー破壊して負けたり、さらに同じことをCCCでもやったらしくて凝りねーなぁ、って感じでした。
その時のLoMでベスト8残った手塚さんと坂本さんもたしかその頃知り合って、手塚さんはよくFBの大会で当たったりして、坂本さんは謎に家が近かったらしくてナカジマにちょくちょく来てました。
正直その当時は群馬のマジックは今井さんが中心だった気がします。
ホントに彼には勝ったのは数え切れるくらいだったし。
今まではFBくらいしか大会なかったんですけど、アドリビダムっていうサークルの大会があって、そこには60人オーバーの人数が集まるらしいって噂聞きました。
ちなみにそれを聞いたのはFBの大会の当日で、しかもアドリビの大会もモロ被りしてたので行きませんでした。
そのことを教えてくれたシンヤは白茶単でその日2位だったらしくてグッジョブ(*^ー゜)bでした。
シンヤも今井さんとかと同じコミュニティーでたびたび行くようになりました。
今ではもうデュエルスペースも撤去されちゃったらしいですけど、TOYっていう店です。
おれがこないだ実家帰って停電したゲーセンの隣りにあるゲーム屋の中にスペースがあって、そこで学校帰りにたびたび調整しに行きました。
そこにいたえーちゃんが去年の群馬チャンプです。
まだマジックやってたんだーと思ってうれしかったのを覚えてます。
そんでこの年の冬のFinals2000。
TOY勢で予選行きました。
デッキはFires。
当時このデッキでブンブンしてて、初めて出たアドリビの大会でも決勝で天敵のレベル潰して優勝するくらい引きが若かったです。
そして「勝ちたいんや!」がカラ回って死去。
その時に今井さんはちゃっかり青白で予選抜けてました。
メインの生物が《希望の化身/Avatar of Hope(PR)》のみのヘビーパーミッションでした。
これがかなりよくできてて今でも抜けたのはうなずけます。
たぶんデッキの中身は前に発売されてたFinals2000のデッキ集に載ってると思うので持ってる人は見てみてください。
丁度その時期はエクテンシーズンでおれはリプレ使ってました。
FBの大会でも使ってて今井さんが使ってたエターナルブルーにかなりせこい手を使われて負けました。
ちなみに今やったら即DQでしょう。
まあいい思い出ですわ( ゜д゜)、ペッ
ちなみに今井さんはエターナルブルーをFinals本戦に持ち込んで見事なくらい討ち死にしてました。
でも2日目のスタンはきっちり5−1してるあたりが強かったなぁ、と思います。
丁度その時期にgungと井上さんと出会います。
これが後々のマジック人生に大きく関わってくるとは思いもしなかったれっづでした。
〜つづく〜
糸井さんの話の続きですが、デュエリストジャパンVol.8をお持ちの方は24Pの『果てしなき可能性〜99年日本選手権観戦記〜』を御覧下さい。
下の写真のNACさんの左に座ってるのが糸井さんです。
ちなみに右上の能西さんの解説がしてあるんですけど、一緒に載ってる写真は糸井さんですw
このことを糸井さんに言うと怒るのでおもしろくてこのネタでたまにいじってました。
そんなこんなで初の公認トーナメントにクラークと行くことになりました。
当時はFB高崎店が一番栄えてた(DCI公認で)のでドキドキしながらFBへ行きました。
そして驚愕の事実を知ることになります。
丁度その時にデスティニーが出たばっかしで、おれが持ってったデッキが《アカデミーの研究者/Academy Researchers(UZ)》やら《玉虫色のドレイク/Iridescent Drake(UD)》やらに各種抱擁をくっ付けてぶん殴る青単ビートダウンだったんですけどw
当時発売してすぐ使っちゃいけないルールなんて知らなかったのでジャッジに「組みなおしてね☆」と軽くあしらわれました。
仕方ないので持ってきた予備カードをあさって謎に《ゼフィド/Zephid(UZ)》などをぶち込んだ記憶があります。
結果は2−3でぐちゃデッキのわりにはまあまあだったと思いました。
初めて公認トーナメントに出てから、おれはまるで思春期のオナニー少年のようにデッキ調整に勤しみました。
部活を辞めて時間もある程度自由だったため学校帰りに近くのわんぱくこぞう行ったりしてマジックマジックしてました。
ちなみにそこの店は速攻でつぶれました。
そんで次に出た時が赤単頑張れ《バルデュヴィアの大軍/Balduvian Horde(6E)》デッキで3−2。
その頃に黒田さん、狩野さん、織田さんと知り合って大会のたびに遊んでました。
黒田さんはまじでネプチューンの泰造に似てます。黒大好きです。
狩野さんはスーパーエロゲ大将でよくエロゲーを譲ってもらえました。
織田さんは生粋のエンチャントレス好きないいお兄さんでした。
みなさんお元気ですか?(*´∇`*)
その次のトーナメントあたりからコンスタントに4−1を繰り返すようになります。
初めて4−1の2位に滑り込んだ時はマスクスが出てレベルが登場してるのにレベルを使わない白うにーでした。
糸井さんと調整してて糸井さんはその頃からレベルだったんですけど、おれはわが道を行ってました。
8クルセイドで《恭しきマントラ/Reverent Mantra(MM)》とか《ハルマゲドン/Armageddon(6E)》撃ってれば勝てましたし。
そんで初めての大きい大会っつか予選だけど、1999年のFinals予選です。
その頃は関東5次くらいまであってどの日に出るかピヨピヨしてました。
糸井さんは初日に出場してきっちり白うにーで6−1突破してました。
おれはたしか2次あたりだった気がする。
河野さんとおれと伊藤(同中のやつ。陸上部でかおがトム・ヴァン・デ・ドロに似てる)で行きました。
ちなみに伊藤は葉書送り忘れて出れないのに見学ということで一緒についてきただけです。
もともと調整してたのは白うにーですけど、メタ的に生物殺してーって思って黒コンを持ち込みました。
結果はたしか2−2Dropだったっけな?
河野さんはピットサイクル持ち込んでたんですけど、おれが見てるデュエルでピヨピヨしてるのを見てちょっとだけ失望したのを覚えてます。
そこで初めて世界は広いなーと思いました。
気付くの遅すぎますけど、群馬の当時のコミュニティーではこんなもんだと思います。
〜高2〜
FBも店の新装開店なんだか理由はわかりませんけど場所が変わりました。
でも大会は相変わらずだったので月に1回の月例トーナメントを目標に日々デッキ調整してました。
その頃から会うようになったのが今井さんです。
彼は生粋の青使いで普通に構築戦では負けるのはほぼ見たことがないくらいでした。
彼の伝説としては後に行われる岡田さんが優勝の2001年のLoMの最終戦(だった気がする)で《選択/Opt(IN)》打って自分のライブラリー破壊して負けたり、さらに同じことをCCCでもやったらしくて凝りねーなぁ、って感じでした。
その時のLoMでベスト8残った手塚さんと坂本さんもたしかその頃知り合って、手塚さんはよくFBの大会で当たったりして、坂本さんは謎に家が近かったらしくてナカジマにちょくちょく来てました。
正直その当時は群馬のマジックは今井さんが中心だった気がします。
ホントに彼には勝ったのは数え切れるくらいだったし。
今まではFBくらいしか大会なかったんですけど、アドリビダムっていうサークルの大会があって、そこには60人オーバーの人数が集まるらしいって噂聞きました。
ちなみにそれを聞いたのはFBの大会の当日で、しかもアドリビの大会もモロ被りしてたので行きませんでした。
そのことを教えてくれたシンヤは白茶単でその日2位だったらしくてグッジョブ(*^ー゜)bでした。
シンヤも今井さんとかと同じコミュニティーでたびたび行くようになりました。
今ではもうデュエルスペースも撤去されちゃったらしいですけど、TOYっていう店です。
おれがこないだ実家帰って停電したゲーセンの隣りにあるゲーム屋の中にスペースがあって、そこで学校帰りにたびたび調整しに行きました。
そこにいたえーちゃんが去年の群馬チャンプです。
まだマジックやってたんだーと思ってうれしかったのを覚えてます。
そんでこの年の冬のFinals2000。
TOY勢で予選行きました。
デッキはFires。
当時このデッキでブンブンしてて、初めて出たアドリビの大会でも決勝で天敵のレベル潰して優勝するくらい引きが若かったです。
そして「勝ちたいんや!」がカラ回って死去。
その時に今井さんはちゃっかり青白で予選抜けてました。
メインの生物が《希望の化身/Avatar of Hope(PR)》のみのヘビーパーミッションでした。
これがかなりよくできてて今でも抜けたのはうなずけます。
たぶんデッキの中身は前に発売されてたFinals2000のデッキ集に載ってると思うので持ってる人は見てみてください。
丁度その時期はエクテンシーズンでおれはリプレ使ってました。
FBの大会でも使ってて今井さんが使ってたエターナルブルーにかなりせこい手を使われて負けました。
ちなみに今やったら即DQでしょう。
まあいい思い出ですわ( ゜д゜)、ペッ
ちなみに今井さんはエターナルブルーをFinals本戦に持ち込んで見事なくらい討ち死にしてました。
でも2日目のスタンはきっちり5−1してるあたりが強かったなぁ、と思います。
丁度その時期にgungと井上さんと出会います。
これが後々のマジック人生に大きく関わってくるとは思いもしなかったれっづでした。
〜つづく〜
最近デュエリストジャパンをやたら読み返してるんですけど、やっぱこの雑誌はまじ(・∀・)ゴッコ!ですね。
また復活しないかなー(*´∇`*)
んで前々から書こう書こうと思ってた自分のマジックのちょっとした歴史を書いてみようと思いました。
デュエリストジャパン読んでるといつも懐かしくなりますよね。
決してネタ埋めとかじゃないですよw
他の人が前書いてておもしろかったのでいつか書いてやろうか、と思ってたんですけど気付いたら全然書いてませんでした。
オナニー日記になっちゃうかもしれないのでこんなティムポマシーンの歴史なんぞ読み飛ばしていただいてかまいませんので。
〜中2〜
初めてマジックに会ったのは中2ん時でした。
近くのショップではまだ4thとかヴィジョンズとか売ってました。
学校の友達がもともとやってたらしくておれらの周りでちょっとしたブームになりました。
たしか遊戯王でミラージュのプレゼントとかやってたからそれも影響してたのかも。
なので最初おれが一番欲しかったカードは《奈落の王》でした。
デーモンに(;´Д`)ハァハァしてました。
そんで塾早めに行って教室でやってたり臨海学校とかでも持って行ってやってました。
臨海学校では他のクラスのパンピーが持ってきてはいけないものを見事に先生に見つかっちゃって強制ガサ入れが。
でもなぜかおれの隣りの布団だった優ってやつが畳みはがせることがわかってその下にさらに物が隠せるようになっててみんなでカードを詰め込んだ覚えがあります。
たぶん他の学校のやつらが作ってくれたんでしょう。
会ったことのない中学生同士のナイスコンビプレーに感動しました。
はじめの方遊んでたルールだと初手に来たランドを全て場に出せるという舐めたルールだったのでよくわからんゲームになってました。
その後に発売したポータルを買って驚愕して友達と苦笑いしながら1ターン目からせこせこと土地を置くことを学びました。
中2のあたりではまだまだ部活やら塾でカジュアルプレイにいそしんでました。
〜中3〜
中3のクラス替えでなぜか同じ学年でマジックやってるやつの9割が同じクラスになってみんなで万々歳してました。
その頃他のクラスで元々友達だった井口がマジックの経験者というのを知ります。
ちゃんと公式戦にも出ててDCIのナンバーが7桁でした。
当時はおれはDCIのナンバーなど持ってなかったので(´・∀・`)ヘーって感じでしたけど今思うとけっこう古株ですね。
中3にもなるとデュエリストジャパンを買い始めたおかげでちょっとだけトーナメント志向のデッキを作りはじめます。
その頃から書いてるデッキノートも未だに続けてて、おれが構築のトーナメント出る時はいつも持ってきます。
といっても中3のガックスの作れるデッキと言ったら黒単とか赤単とかです。
たしかおれは黒単ウィニーを使ってました。
それでも赤単バーンに勝てちゃったりしてる時点でしょせんガックスです。
ちなみにガックスってのはガキの複数系でうちらの周りでは使ってました。
使用例;
「このガックスがッッッ!!」
中3の修学旅行で京都行った時も真っ先に行ったのがマジックのショップだったのが今思うと(*´∇`*)あははって感じです。
なんとなく購入したストロングホールドのパックから《呪われたクロウヴァクス/Crovax the Cursed(ST)》が出て京都に来たかいがあったなーなどと勃起した記憶があります。
そして中3の頃に同級生のうちが趣味でプラモ屋を開店しました。
うちらはそのコネでマジックを入荷してもらって、デュエルスペースも作ってもらいました。
つっても4席くらいですけど。
その名もナカジマ。いや、そこんちが中島さんちだったからなんだけど。
中3の夏に部活も引退して受験モードだ!と見せかけて毎日学校帰りにナカジマに突撃してシコシコとマジックしてました。
でも秋くらいになると前日記にも書いた知美と付き合ってて毎日一緒に帰って人気のないとこでペティったりしてたのであんましマジックしてなかったかもしれません。
もうこの時期になるとマジックやってた友達も少なくなっておれ入れて4、5人程度。
その中でもクラークってやつがいつも一緒にマジックをたしなんでました。
なんでクラークかっていうと苗字がKoFのクラークに似てたからです。
そんでそこそこ勉強もしつつナカジマでマジックしてると知らないマジックプレイヤーも来始めて、その中で糸井さんと出会いました。
糸井さんっていうのは兄弟でマジックしてて兄はカジュアルプレイヤーで主に弟の方がトーナメントプレイヤーでした。
もう一人河野さんって人も加わってよく3人でナカジマに来てておれらはきっと強い人なんだろうなーって思ってました。
意を決してトレードを申し込むと糸井さんのファイルからは《呪われた巻物/Cursed Scroll(TE)》が9枚くらいあって死に掛けた覚えがあります。
もちろん仲間うちで巻物持ってるやつは1人いたくらいで、枚数も1枚でした。
そんなこんなでデッキを見てもらったりいろいろお世話してもらいました。
さすがに冬くらいにもなると受験モードになって勉強をコスコスやってました。
その頃は主に勉強と恋愛でした。
亜矢子と毎日放課後は一緒に勉強→塾のコンボが延々と続いてたのでマジックはあんまししてませんでした。
でも丁度受験期の2月に学校終わって意気揚々とクラークとレガシー買いに行ったおれのことは嫌いじゃありません。
んでなんとか第一志望の地元の一番の進学校に滑り込めたため親との約束だった死ぬほどマジックしていい券を(σ・∀・)σゲッツ!!
それから春休みの間はクラークんちで毎日マジックしてました。
セットランドするたび「気持っちィィィ!超気持っちィィィィィィィ!!」と今思えば流行語大賞を先取りするであろう発言を連呼してました。
〜高1〜
同じ高校入った同中の友達は5人。
んで新たに5人程マジックやってるやつらを発見できました。
同中の仁志と同じクラスになって、初めの自己紹介で二人して「趣味はマジックですっっっ!!」と100万ドルの笑顔でアピったおかげでおれらはマジシャンと周りからは認識されたようです。
休み時間ににやにや近づいて来た怪しげな男が「マジックやってるん??」と聞いて来て、そいつが後々に一緒にトーナメント出る友達となった男、その名も社長です。
見た目が社長っぽいのでそれ以外にあだ名は付けられません。
ところで他の高校行ったやつらはというとクラークと井口は近くにマナソースがある高校に行ったため毎日のように通いつめたらしくおれらはティムポを握りながらうらやましがることしかできませんでした。
休みの日はみんなナカジマに集まってマジックしてました。
ちなみにおれは某運動部に入ってましたが、土日がつぶれるという舐めた理由で5月くらいに辞めました。
そんで丁度その頃ナカジマでマジックしてると糸井さんたちが来て「日本選手権行ってきたよー」って言っててすげぇ!って思いました。
順位はたしか10位くらいだった気がします。
最後フジケンさんに切られて惜しくもその順位だったそうな。
前からですけど、そのころから糸井さんのことを師匠とあがめて一緒に調整とかさせてもらってました。
〜続く〜
また復活しないかなー(*´∇`*)
んで前々から書こう書こうと思ってた自分のマジックのちょっとした歴史を書いてみようと思いました。
デュエリストジャパン読んでるといつも懐かしくなりますよね。
他の人が前書いてておもしろかったのでいつか書いてやろうか、と思ってたんですけど気付いたら全然書いてませんでした。
オナニー日記になっちゃうかもしれないのでこんなティムポマシーンの歴史なんぞ読み飛ばしていただいてかまいませんので。
〜中2〜
初めてマジックに会ったのは中2ん時でした。
近くのショップではまだ4thとかヴィジョンズとか売ってました。
学校の友達がもともとやってたらしくておれらの周りでちょっとしたブームになりました。
たしか遊戯王でミラージュのプレゼントとかやってたからそれも影響してたのかも。
なので最初おれが一番欲しかったカードは《奈落の王》でした。
デーモンに(;´Д`)ハァハァしてました。
そんで塾早めに行って教室でやってたり臨海学校とかでも持って行ってやってました。
臨海学校では他のクラスのパンピーが持ってきてはいけないものを見事に先生に見つかっちゃって強制ガサ入れが。
でもなぜかおれの隣りの布団だった優ってやつが畳みはがせることがわかってその下にさらに物が隠せるようになっててみんなでカードを詰め込んだ覚えがあります。
たぶん他の学校のやつらが作ってくれたんでしょう。
会ったことのない中学生同士のナイスコンビプレーに感動しました。
はじめの方遊んでたルールだと初手に来たランドを全て場に出せるという舐めたルールだったのでよくわからんゲームになってました。
その後に発売したポータルを買って驚愕して友達と苦笑いしながら1ターン目からせこせこと土地を置くことを学びました。
中2のあたりではまだまだ部活やら塾でカジュアルプレイにいそしんでました。
〜中3〜
中3のクラス替えでなぜか同じ学年でマジックやってるやつの9割が同じクラスになってみんなで万々歳してました。
その頃他のクラスで元々友達だった井口がマジックの経験者というのを知ります。
ちゃんと公式戦にも出ててDCIのナンバーが7桁でした。
当時はおれはDCIのナンバーなど持ってなかったので(´・∀・`)ヘーって感じでしたけど今思うとけっこう古株ですね。
中3にもなるとデュエリストジャパンを買い始めたおかげでちょっとだけトーナメント志向のデッキを作りはじめます。
その頃から書いてるデッキノートも未だに続けてて、おれが構築のトーナメント出る時はいつも持ってきます。
といっても中3のガックスの作れるデッキと言ったら黒単とか赤単とかです。
たしかおれは黒単ウィニーを使ってました。
それでも赤単バーンに勝てちゃったりしてる時点でしょせんガックスです。
ちなみにガックスってのはガキの複数系でうちらの周りでは使ってました。
使用例;
「このガックスがッッッ!!」
中3の修学旅行で京都行った時も真っ先に行ったのがマジックのショップだったのが今思うと(*´∇`*)あははって感じです。
なんとなく購入したストロングホールドのパックから《呪われたクロウヴァクス/Crovax the Cursed(ST)》が出て京都に来たかいがあったなーなどと勃起した記憶があります。
そして中3の頃に同級生のうちが趣味でプラモ屋を開店しました。
うちらはそのコネでマジックを入荷してもらって、デュエルスペースも作ってもらいました。
つっても4席くらいですけど。
その名もナカジマ。いや、そこんちが中島さんちだったからなんだけど。
中3の夏に部活も引退して受験モードだ!と見せかけて毎日学校帰りにナカジマに突撃してシコシコとマジックしてました。
でも秋くらいになると前日記にも書いた知美と付き合ってて毎日一緒に帰って人気のないとこでペティったりしてたのであんましマジックしてなかったかもしれません。
もうこの時期になるとマジックやってた友達も少なくなっておれ入れて4、5人程度。
その中でもクラークってやつがいつも一緒にマジックをたしなんでました。
なんでクラークかっていうと苗字がKoFのクラークに似てたからです。
そんでそこそこ勉強もしつつナカジマでマジックしてると知らないマジックプレイヤーも来始めて、その中で糸井さんと出会いました。
糸井さんっていうのは兄弟でマジックしてて兄はカジュアルプレイヤーで主に弟の方がトーナメントプレイヤーでした。
もう一人河野さんって人も加わってよく3人でナカジマに来てておれらはきっと強い人なんだろうなーって思ってました。
意を決してトレードを申し込むと糸井さんのファイルからは《呪われた巻物/Cursed Scroll(TE)》が9枚くらいあって死に掛けた覚えがあります。
もちろん仲間うちで巻物持ってるやつは1人いたくらいで、枚数も1枚でした。
そんなこんなでデッキを見てもらったりいろいろお世話してもらいました。
さすがに冬くらいにもなると受験モードになって勉強をコスコスやってました。
その頃は主に勉強と恋愛でした。
亜矢子と毎日放課後は一緒に勉強→塾のコンボが延々と続いてたのでマジックはあんまししてませんでした。
でも丁度受験期の2月に学校終わって意気揚々とクラークとレガシー買いに行ったおれのことは嫌いじゃありません。
んでなんとか第一志望の地元の一番の進学校に滑り込めたため親との約束だった死ぬほどマジックしていい券を(σ・∀・)σゲッツ!!
それから春休みの間はクラークんちで毎日マジックしてました。
セットランドするたび「気持っちィィィ!超気持っちィィィィィィィ!!」と今思えば流行語大賞を先取りするであろう発言を連呼してました。
〜高1〜
同じ高校入った同中の友達は5人。
んで新たに5人程マジックやってるやつらを発見できました。
同中の仁志と同じクラスになって、初めの自己紹介で二人して「趣味はマジックですっっっ!!」と100万ドルの笑顔でアピったおかげでおれらはマジシャンと周りからは認識されたようです。
休み時間ににやにや近づいて来た怪しげな男が「マジックやってるん??」と聞いて来て、そいつが後々に一緒にトーナメント出る友達となった男、その名も社長です。
見た目が社長っぽいのでそれ以外にあだ名は付けられません。
ところで他の高校行ったやつらはというとクラークと井口は近くにマナソースがある高校に行ったため毎日のように通いつめたらしくおれらはティムポを握りながらうらやましがることしかできませんでした。
休みの日はみんなナカジマに集まってマジックしてました。
ちなみにおれは某運動部に入ってましたが、土日がつぶれるという舐めた理由で5月くらいに辞めました。
そんで丁度その頃ナカジマでマジックしてると糸井さんたちが来て「日本選手権行ってきたよー」って言っててすげぇ!って思いました。
順位はたしか10位くらいだった気がします。
最後フジケンさんに切られて惜しくもその順位だったそうな。
前からですけど、そのころから糸井さんのことを師匠とあがめて一緒に調整とかさせてもらってました。
〜続く〜